守(しゅ)破(は)離(り)という言葉をご存じでしょうか。
もとは千利休の「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という短歌からきたとされています。
短い歌の中に、言いたいことがぎゅっと詰まっていて、しかも日本人の真髄
その後、茶道・武道あるいは古典芸能などにおける師弟関係・修行の心構えを表す言葉として使われ、今ではさらに広い場面での成長のステップとして使われることもあります。
千利休の守破離
修業においては、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから始まり、師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みます。
その型を身につけたら、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになります。
さらに鍛錬を重ね、もともと教わった師匠の型と自分自身で見出した型のどちらにも精通すれば、既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる
という流れです。昔の”新しい流派”って、そこまで極めて生まれているんですね。
最近の”新興宗教”にそこまでの極めは感じませんが…
そしてさらに戒めの言葉が続きます。
「本を忘るな」のとおり、教えを破り離れたとしても根源の精神を見失ってはならないということが重要であり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」である、
あるいは、もっと端的に
型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』
と古典芸能の世界などで言われています。
「破」だけでも、なかなか厳しいのね
守破離的子育て
このブログでのいちひめはまだ小学生なので、まだまだ「守」がメインですが、これからちょっと先の「破」にむけての助走期間でもありました。
守る
子育てにおいて、あれもこれもいろんな型を守る、ができるのは小学校卒業までです。
学校の先生も、小学校のあいだは、ほぼほぼ上から目線で接して、間違いはきちんと修正して下さいますし、
何より、子ども本人が親や先生の言うことを非常に従順にきいてくれます。
ありがたい
親としては、厳しくするのは小学校前半までで、後半からは少しずつ優しくしていきます。
っていうか、親が無駄吠えしない、の方が近いかな…
優しくする理由は、
その方が効き目があるから。
小学生後半に厳しい言葉をかけ続けると、中学生時代~にその反動が来ますのでご注意を。
ここは、自分の身近な人の経験や、一般論として危惧し、注意していました
破る
中学生という時代は、ちょっとずつ外からの意見や情報に心動かさたり、自分の興味の方向が見えてきたりするので、
”子ども本人が自分で考えて行動する時間”を家庭でも作っていく、
つまり、
「破る」時間を作る
ことも大切になってきます。でも、ほんのちょっとだけですよ。
各ご家庭で絶対守らなければならないことは引き続き厳しくチェックします。
「〇〇さんの家庭のルールでは◆◆なのに、どうしてウチは☆☆なの?」
みたいな比較を子どもがしたら、頭ごなしに他人様は他人様、ウチはウチ、と言うのではなく、まずは話し合いをすることが重要だったと考えています。
その話し合いができる環境を作っておくのは小学生時代ですから、小学生の段階で何でも話す環境を作りを意識していました。
もちろん、親の側は、ウチはウチと主張できるだけの根拠と軸を持っていなければいけませんし、他人様のご家庭のルールの方がいいね、となれば、さらっと変えていく柔軟性も大切です。
きっと学校の先生は、学校のルールといろんなご家庭のいろんなルールとのバランスを上手に取ってくださったのでしょうね。
そういう意味で、個性を育てることに注力していただいた、我が子たちが通った小中学校には感謝しかないです。
離れる
離れる、は、芸の世界では、基本をしっかり身につけた上でオリジナリティを生み出し、新しい流派を作ってしまうことですから、
簡単にはできませんよね。
ただ、子育て的・人の成長的には、あらゆる場面で「守破離」が起こっていますから、そういう観点で書かせていただきますと、、
例えば、一日の生活とか、勉強時間とか、勉強の仕方などは、中学生から徐々に自分のスタイルができてきます。もちろんそれは学校生活との兼ね合いなのでどんどん変わっていき、総論で「守」・各論で「破」や「離」みたいなことも起こってきます。
また、それらのボーダーもあいまいです。
そのようなあいまいさを含んだなかでも、
近い将来の「破」や「離」を見据えて「守」の子育てを行うのか、
しばらくはずっと「守」のままでいくのか、
それによっても「守」の取り組み方が変わってきます。
そんな視座を親が持っていることが必要でして、どこは「守」でどこはそろそろ「破」とするか、我が子とはいえ、子どもによっても対応を変える必要がありました。
小学生後半というのは、今思い返しますと、子どもにはあらゆる可能性があり、親は子に対してあらゆる方向へ”進ませる”影響力を持っている最終段階でした。我が家的には、この時期に、
- 勉強ってわかると面白いよ
- 自分には居場所があるよ
- 毎日が楽しいよ
- ○○(苦手なもの)は辛かったけれどやってよかった
のような経験を重ねられたら、それが必ず中学生以降にも良い影響をもたらすであろうとと信じて子育てをして、だいたいそうなりました。
ネガティブな表現を敢えてしますと、小さいネガティブ経験は通る道として”あり”ですが、
絶対にトラウマ的な経験をしない(させない)
という時代でもありました。
その子にとってトラウマになっているかどうかは、本人のふと漏らす言葉や態度で判断すればいいと思います。親のワタシは絶対忘れないけどね、というようなことでも、子ども本人はすっかり忘れちゃってることもありますので。
人生、長いですから、いつか、その人にとっての”ひどい体験”をすることは避けられないかもしれませんが、少なくともそれは大人になってからでいいじゃないですか。
なんだか、あまり具体的じゃなくてすみません。まとめますと、
子育てには、何段階ものステップがあり、
①まずは一般的に「健全に育ってもらう」
②次に、逆算方式で伸ばしていく
③最後が、限界や目標を設けず突き進む
というレールに我が子が乗ってくれたら上々だろうと思っていて、それはまるでドラマのような、、、つまり、伏線を張りまくりの小学生時代から、なんとか回収していった中学生高校生時代の子育てでした。
順序は大切
結局、子育ての上で守破離を気にする必要があるのは、親の方だということがお分かりいただけたかと思います。
我が家の場合、小学校の勉強を先取りする、英語を早めに始めたのは「破」な子育てでした。
ただ、「我が家は「破」傾向多めの家庭です」と先生に主張すると学校に迷惑がかかるので、表向きは「守」で、ひっそりと「破」な家庭でした。
その分親子関係の距離感は「守」が長いです。子どもの側には親との距離感なんてわかっていませんから、親の方から等距離を保つ、子どもの成長につれてその距離はちょっとずつ長くなっていきますが、こちらから離すのではなく、子どもがとりたい距離に合わせる、離れ過ぎたら「離れすぎです」とちゃんと伝えて、子どもの方からも近づいてきてもらう。
そんな距離感を今でも「守」っています。
他にもいろんな場面で守破離はありましたが、
「守」→「破」→「離」の順番だけは守るようにしてきました。
まだどちらとも決められない時期に、「守」⇔「破」や「破」⇔「離」を行ったり来たりはOKですけど、
「破」を飛ばして、いきなり「守」と「離」の行ったり来たりをすると、親子の信頼関係を一気に失うか、子どもはついていけなくなりますから注意です。
そして、今のいちひめですが、
全体的に言えば、一歩ずつ成長しているとも言えますし、まだまだな部分もありますねぇ…正直、伏線を張って~回収作業は高校卒業までしか読めてなくて、、、
娘が大学生になってからのワタシの役目は、突然やってくる「破」を理解してコメントできたらいいレベルになってしまいましたが、、、
いや、親のワタシでさえ、強制的に「離」になれば慌てるし、相変わらず「守」のままだったりしますから…
ここはもう、ぼちぼちです。
最後に、今日の記事とは違う観点の人について触れた記事を、かつてのワタクシが書いております。
観阿弥は「守」の前にはこういう時代もあるといいたかったのかな…
いや、どっちも大事なんですよね…どっちも大事だから、子育ては難しい。
まぁ、難しく考えないで、気楽にいきましょっ
今回もお読みいただきましてありがとうございました。
にたろうの成長の様子は時計の逆回転で綴っています。どうぞ にたろう もご覧ください
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