息子が高校生になった年というのは、我が家的に、ワタシ的にちょっと落ち着いた年でした。
こちら でも触れさせていただいたのですが、
要するに、娘が大学受験を終えて、大学生になった年でもあるんですね。
我が家にとって、初めての大学受験を終えて、さぁ、次は息子!
と前向きになれた年。
そうですね、長く暗いトンネルを抜けたような、何か新しいことに進む道筋が見えてきた頃でした。
家族って、誰か一人でも何かあると、他の家族も引っ張られます。
娘が高校生だった3年間、つまり、息子が中学生だった3年間、家族の足を引っ張っていたのは、
他でもない、私自身でした。
この頃のことを、どんな風に書くか、いえ、書かないですませるか、いろいろ考えたんですけど、
子どもたちにとっても、母親(=私)の状態は他人事ではありませんし、全く触れないで進むのはこのブログの趣旨からはずれるな、と思いなおしまして、、、
今回は、私自身のお話を。
はすちゃんの大殺界
大殺界、って、すごい響きの文字の並びですよね。
ワタクシ、全然スピリチュアル系ではないので、当時、どっぷり気にしていたわけではないんですけど、、、
息子が中学生だった3年間、ちょうど私の大殺界の3年間でもありまして、今思えばなかなかハードな日々でした。
大殺界1年目。
ま、これは別に悪いことではありませんが、それまでずっとだましだましでやってきた自分の体調を、全面的にテコ入れするため、
手術を2回、受けました(こちら)。
予定して受けた手術ですし、予後も特に大きな問題なく、順調に回復したので、
何も問題はなかったのですが、
まぁ、それは無事に終わったから、という結果論であり、
手術前後の半年は、私の入退院で家族に大いに迷惑をかけてしまいました。
大殺界2年目の春~秋
なるべくおとなしく、新しいことは始めない。きわめて粛々と生活していたのですが、
なんと買い物帰り、横断歩道手前で停車中の私の車に、バイクがぶつかってきました。
こちらは、完全に停車していたので、0対100になったものの、
なんだか、いやな感じ。。。
と、思っていたら、実家の父が体調を悪くして、入院。
あれよあれよという間に、亡くなってしまいました。
ここまでの3つが1年半のうちに起こったというだけで、もう十分大殺界の洗礼は受けたと思いますよね…
思いますよね、でもまだまだ続く…
大殺界2年目の秋~3年目
実家に一人残された母。
父が亡くなり、気落ちはしていましたが、老々介護から解放され、
「これからは自分のために生きるね、長生きするから心配しないで」と言っていました。
が、
持病もあり、一人暮らしが少しずつ難しくなっていきました。
当時の私は、父という心の柱を失った母のケアを、もっとちゃんとするべきでした。
なるべく母の顔を見に帰省して、滞在するようにはしていたのですが、
娘が高校2年からもうすぐ3年になる大事な時期、いわゆる高3の0学期だったので、
母のことだけに時間を使うわけにもいかず、、、
(実は、このときの私の判断が散漫になってしまい、娘の”オンライン鉄緑会”への入会が3か月おそくなってしまいました)
そんなとき、私の姉が、”お母さんの面倒は全面的に自分がみるから、なにも心配しないで任せて!”
と言ってくれました。
姉は、私より6歳上なので一緒に遊んだ思い出はほぼありません。どちらかというと、尊敬の対象、だったかな。お勉強のよくできる人でしたので。私が中学生になったときに東京の大学へ進学して、そのまま結婚してしまったので、その後もそんなに接点はありませんでした。
そんな姉が、義兄と二人暮らしで自由な時間が多いから、これからは母のそばにいてくれるというので、
本当ですか?お願いします!
安心してお願いしたのも束の間…
実は、かねてから、折り合いの悪かった両親と姉。
そこまでは知らなかった
姉は一方的に自分の主張を母にした挙句、腹をたてて、
私の知らないうちに母一人にして、戻ってしまったと…
びっくりして、姉に事情をきいたら、
「もう母の顔を見ることはない。一人で生きていけばいい。」
と言われました。
え?どういうこと?
今思えば、ですよ、今思えば、
”お母さんの面倒は全面的に自分がみるから” の言葉には大事な単語が抜けていて、
本当は、
”お母さんの 財産の 面倒は全面的に自分がみるから”
でした。
姉は、実家に滞在していたときも、母にごはんを作ってもらって、一生懸命、財産目録を作っていたようです。
うーん、正直、困りました。
実家は遠いので、家を空けるとなると1週間単位で空けざるを得ません。こっちは、大学受験生と高校受験生がいるので、ワタシが家にいないことで、家族にいろいろと迷惑をかけるのは、ワタシの手術のときによぉくわかっています。
家族と実家、どっちつかずの気持ちを抱え、姉に対するグレーな気持ちも抱えたままの毎日でした。
そんな気持ちが、母に伝わってしまったのか、、
母もまた、その後急速に持病を悪化させ、あっさり逝ってしまいました。
今思うと、母は、両親と姉との関係がそんなに良くなかったことを、私には言わないようにしてきたのでした。
そして長年、姉のご機嫌の矛先が私に向かないよう、間に入ってくれていたのでした。
母が亡くなった、大殺界3年目の夏。
姉の言いたい放題攻撃の壁になってくれる人は、もう誰もいません。
残されたのは、ほんのわずかの、でも、父と母の思い出の詰まった財産。
最後まで両親と折り合いが悪く、生前の義務のほとんどを放棄した姉が、
母が亡くなると同時に、手のひらを返したように、自分は可愛がられていたから、と、相続の権利を私に主張しはじめました。
そっち?え?両親が相次いで亡くなって、ワタシは悲しいだけの日々を過ごしているのに?
私としては、たった二人の姉妹、相次ぐ急な両親の死を一緒に「あとは大丈夫だよ」と言って見送りたかったし、一緒に泣きたかったし、一緒に乗り越えるためのたった一人の肉親だと思っていました。
でも、親に対する気持ちも、全然違っていました。
またまた、今思えばですけど…
父が亡くなった葬儀のあとの精進料理をいただきながら、姉は、
「母には内緒だけど、〇〇(不動産)と▼▼(不動産)を相続したいけどそれでいいか?」
って私に言ってきた上に、
その日の夜、真夜中の3時半まで粘って、母に相続の交渉をしていました。
母が亡くなったお通夜の夜に、立ち話で、
「▼▼は自分が相続したいけど、それでいいか?」
と、私に言ってきました。
鬼?
これだけでも、この人変だなって他人様なら絶対思うはずなのに、尊敬してたしなぁ、どこかで信じる気持ちがありました。洗脳されてたかなぁ…
でも本当に、あなたは財産のことしか頭になかったのね…
心の整理がつかないうちに畳みかける戦法だったのかもしれないけれど、
ワタクシ、気が動転してしまいまして、即答しなかったところ…
そのせいで、この年の夏~秋は、
姉の言いたい放題攻撃、かかってくる電話はいつも長い、毎週のようにくる手紙はA4で5枚以上、、、
受験生のいる家庭に長電話って、、、非常識ってこと、知りませんか?
ポストに分厚い茶封筒が入るたびに、家族全員が嫌な思いをするって、わかりませんか?
わざと?
あーめんどくさい。あなたの話は長い。
でも、慌てない。怒らない。同じ土俵に上がらない。
やっと洗脳が解けました。そっかー、私の洗脳が解けるまでずっとあの恐怖が続く仕掛けだったのかも。
とにかくこっちは、子どもが、高3と中3の大事な時期です。
私のせいで、受験を失敗させるわけにはいかない。
もう、いいから。
みんないらないから。
ごめんなさい、お父さんお母さん。仲良くできませんでした。
年の離れた姉を、ずっと尊敬し、背中を追ってきた私でしたが、
あの時に面と向かって相対した姉は、私が小さい時に見た、尊敬する姉ではありませんでした。
姉には姉の長い年月の思いがあったのでしょう。でも、あの時の私には、それを理解するだけの時間も余裕もありませんでした。
結局、姉との縁が、あっさりとここで切れました。
大殺界後半は、自分の小ささを痛いほど味わい、打ちのめされ、そして、私の家族観を大きく変えました。
そしてやはり、
親が先に亡くなることは、頭ではわかっていても、なかなか受け入れられないことでした。
それだけ甘えてたんだよなぁ。
親って、形は変われど、死ぬまで子どもの心の支えになってるんですね。
偉大です。
いや、亡くなってからもか…
感謝です。
私に起こった、力不足なこと、悲しいこと、かっこ悪いこと…
強烈にならない程度に子どもたちにも話しました。
親子や兄弟姉妹がずっと仲良くするには、努力や気遣いが必要で
自然と仲良くできるものでないことを知ったことも、
子どもたちに話しました。
こちら では、この時期にお詣りしたときにひいたおみくじのことを綴っています。
受験前に大殺界が明ける
たぶんこれが人生で一番きつい3年間でしたし、
家族にもいろいろと迷惑をかけましたが、
それでも、私を支えてくれて、面白いことを言って笑わせてくれて、和ませてくれたのが子どもたちでした。
「どうしよう、親が二人とも亡くなっちゃった、悲しい!」
と、思いがあふれて、つい言葉にしてしまったら、
「え?ママ何言ってるの⁉私たちがいるじゃん!」と娘が言ってくれました。
そうだった。私の家族は、ここにいるんだった。
大殺界が明けるのは、節分、つまり、2月3日とされています。
子どもたちが中3・高3の冬、晴れて節分を迎え、二人はそれぞれ、高校受験・大学受験を突破し、先に進んでくれました。
そんなわけでして、息子が高1の時は、ワタシにとっても、新しい思いで前に進む決意ができた年だったんです。
やっぱりね、お母さんという立場の人は、元気な方がいいです。
ニコニコしている方がいいです。
どんなに悲しくても日は昇るし、お腹もすくことを知り、
毎日変わりなく夜が明けること、新しい平和な一日が始まることが、
とても幸せなことだと思えるようになったのも、
この頃からです。
気づくの、遅いよね…
両親にとって、たった二人の孫が、私の娘と息子です。
生まれた時から成長をとても楽しみにして、かわいがってくれました。
二人の大学合格の報告ができなかったは心残りですが、
きっと、どこかから見てくれているよね。
私たちのことをかわいがってくださって、どうもありがとうございました。
娘の成長の記録は、時計通りに綴っています。どうぞ、いちひめ もご覧ください。
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