天野浩先生は、2014年にノーベル物理学賞を受賞された先生です。
子どもたちが通った高校は、時々外部から講師の先生をお招きし、お話を聴く機会があったのですが、
大変ラッキーなことに、息子が高校生の時、天野先生の講演を伺うことができました。
本当にラッキー。
ためになる言葉のシャワーを浴びていらっしゃい!
子ども時代は勉強嫌いだった
講演の中で天野先生は、
生まれつきの才能がなくても世界を変えられる、そういったチャンスは必ずある
と、冒頭に述べられました。
そして、
中学までの勉強は大嫌いだった
とおっしゃっています。
また、
高校では数学だけは一生懸命やったけれど、ほかの科目はほとんどやらなかった。
そうです。
冒頭にちょっと触れられただけですが、この部分、子育てをする親としては、かなり注目したいお言葉です。
なぜなら、中学で勉強が大嫌いでも、高校で数学しかやっていなかったとしても、
名古屋大学に進学されていらっしゃるからです。
ですから、天野先生に才能がなかった、などということは決してありません。
それでは、なぜ、先生はこんな表現をされたのでしょう?
それはつまり、
天野先生が、とても謙虚な方だからに違いありません。
と同時に、ご自分の “勉強はしなかったけれど、名大に進学できるレベルの能力” を研究生活に入るまで、うまく温存できた結果ではないか、と感じました。
(天野先生は、地方公立高校のご出身のようです)
だって、名古屋大学って、旧帝ですよ。そこに努力なしで入ったのって、その時点ですごくないですか?
そして、その先の未来、50代でノーベル賞を受賞されることになるなんて、、
やっぱり能力や気力や熱意を、(地方でのんびり?)温存していたとしか思えません。
しかも謙虚だなんて、、、満点子育て…
(以上、はすちゃんの勝手な見解です)
ちょっと気になったので、google先生にも訊いてみたところ、
少年時代の天野先生は、公立トップ高に入らないで二番手高に進学する・京都大学工学部を目指していたけれど、名古屋大学工学部に進学するなど、
お母さまに言わせると
「何でも1ランク落として安全圏を歩く。」
タイプのお子さんだったそうです。 (Wikipediaより)
天野先生は、子ども時代から、実はものすごくこだわりのある、そして、自分で自分の進む道をしっかり決めるお子さんだったのかもしれないな、と感じました。
世界でたった一人でもあきらめない
さて、天野先生は、名古屋大学4年生の研究室配属の時に大きな出会いをされます。
恩師であり、一緒にノーベル賞を受賞された、赤﨑勇先生です。
赤﨑先生のすごいところは、世界でたった一人になっても、研究をやめなかったところだそうです。
1970年代、世界中の一流の研究者がこぞって青色ダイオードを作り出すことに取り組んだそうです。

当時すでに、
- ガリウムとヒ素を材料として赤色ダイオードが
- ガリウムとリンを材料として緑色ダイオードが
できていて、実用化されていました。
ということで、世界中の研究者が、次はガリウムと窒素の化合物で青色ダイオードができるに違いないと予測して、こぞって、窒化ガリウムを作り出す研究をしたのだそうです。
しかしながら、10年かかっても、窒化ガリウムのきれいな結晶ができず、全ての取り組みが悉く失敗に終わる結果に。
赤﨑先生は、もともと民間企業でこの研究をされていたのですが、世界中の人があきらめたために、会社はもうこの研究を続けることを禁じたそうです。
それでもあきらめきれない赤﨑先生は会社を辞めて、名大に移り、研究を続けます。その時に赤﨑先生の研究室に入ったのが、当時学生だった、天野先生でした。
きっかけはゲーム
天野先生が、赤﨑先生の研究室を選んだ理由は、
ゲーム
でした。
当時流行っていた、インベーダーゲーム というのを一生懸命作っていたのだそう。
その時のディスプレイがブラウン管で熱かった。すでに赤と緑ができているLEDで、青ができれば、もっとスマートなディスプレイができるのに、
というのがきっかけだったそうです。
当時、インベーダーゲームを作るのにも、熱中されていたのが伝わってきます。
やっぱり…遊ぶだけじゃだめなのね、作らないとね。。。
研究設備は手作りで
将来ノーベル賞を受賞するくらいの発見の研究ですから、研究設備も、さも立派なのだろうと想像しましたが、
さにあらず。
実験設備を購入しようとすると、当時、1億円かかる設備だったのだそうです。
しかしながら、赤﨑先生の研究費は年間300万円。
そこで、天野先生ら学生さんが、その300万円を使って、手作りで実験装置を作ったのだそうです。
この装置を作って、研究する際、赤﨑先生がよく言われた言葉が
「一番よく知っているのは君たちだから」
で、自由に研究させてもらったのだそう。
天野先生としては、赤﨑先生は一世代古い教育を受けて育った人だから、自分たちの方が恵まれた環境で新しいことを学んで育った分、
自分たちは、先生より新しい発想ができるはずだという気概で、研究をされていたのだそうです。
だから、恩師の意見を鵜呑みにすることなく、また、時には恩師のアドバイスに逆らうことがあっても、
自分の信じる実験方法を試し続けたのだそうです。
赤﨑先生もまた、それを温かく見守り、指導する素晴らしい方ですね。
ここもまた、子育てにおいても大事な点ですね。
人って、ある程度任されると、責任が生じ、その責任を果たすために頑張るんですよね。
赤﨑先生は、当時の学生さんを持ち上げて、本気にさせて、頑張らせたわけです。
もともと余力と熱意のある人が、責任を持たされたことで、さらに熱意を持って進む。
ここがバチっとかみ合うと、ノーベル賞につながるのか~
まさに、サクセスストーリー。
どんなに偉い人の話でも鵜呑みにしないこと
天野先生のお話は続きます。
先生が持っていたのは、研究の熱意だけではありません。
どんな世の中でも、どんな環境でも、
できると思ったことがうまくいかなかったとき、
他の人もできなかったし、先生や外野ができない理由を説明しはじめ…
納得のいかないまま、できないまま放置することってありますよね。
この、「納得がいかないまま」が一番ダメ。
(あー、ワタシなんて、人生の半分がそれ)
また、
偉い人の話は重要だから、とにかく覚えよう、
そして、これってそうだよね、と思い込もう
↑ これは、研究者として絶対やってはいけないことである。
と言われました。
天野先生は、うまくいかなかった例についても紹介されていて、
ある目標を達成された後、さらなる研究を重ねていたのだけど、できなかった。
その時に宿っていた思いが、
これは、できないだろうな、という思いだったそうです。
ところが、全く同じ実験を、同じくノーベル賞を受賞された中村修二氏が完成させたという報を受け、
天野先生もやってみたら、今度はうまく行ったのだそう。
何かをやる時に、必ずできるという信念をもってやるのと、ダメだろうなと思ってやるのとの違いをこの時ほど痛感されたことはないそうです。
- 偉い人の話をうのみにすること
- 確実な根拠のない思い込みや先入観を持つこと
は、絶対してはいけない。
と、もう一度重ねて言われました。
限られた時間の中で、自分が納得し、自分が検証し、自分が決めて行動することは、
どんな時でも覚悟のいることです。
実は、息子が一番感銘を受けて帰ったのが、このお言葉でした。
この時以来、受け売りの多いワタシに対して息子が
「それホント?ソースは?」
という回数が多くなったというおまけもついてきました。。。
創造力は20歳でマックス、70歳でゼロに
さて、天野先生はこの研究を計7年間されたそうですが、
この間、心が折れたことは一度もなかったそうです。
まずは、実験自体が楽しい、予想した結果と違う結果になることさえ楽しい、
そもそも、自分が描いた美しいディスプレイを自分の手で作りたいという大きな夢が常にあって、
そこにたどり着くまでに何をやればいいかも見えていて、
それが、誰も通ったことのない道で、
日々一歩ずつ進んでいる実感を持っていたのだそうです。
ワタシ、思うんですけど、、、事情がたいしてわからなかったであろう天野先生のご両親は、
よく口出しせず、お金を出して、20代の天野先生をサポートしたな、と。
そして、終わりに向けて、同じくノーベル賞を受賞された江崎玲於奈先生の言葉を引用して、エールをいただきました。
創造力は20歳でマックスになる。その代わり70歳になると分別力がマックスになる。
若い人だけが、新しいことができる。
高校生へ向けて
高校生を前に講演をされた天野先生。
夢が見つかっている人は、その夢の実現に向かって頑張ってください。夢がまだ見つかっていない人は、逃げないで、いまやるべきことに集中することが大事。
いつか必ず自分の未来を切り拓く場面に遭遇する。
そのときまでに、自分で考えて、自分で行動するくせを作る
これって、高校生だけじゃないですね。
ワタシも励まされました。
娘の成長の記録は、時計通りに綴っています。どうぞ いちひめ もご覧ください。
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