言葉の感じ方は個人差が大きいので、お読みくださる方によっては、全く的外れな内容ととれるかもしれません…
と前置きして始めさせていただきます。
世の中には、一緒にいて気持ち良く過ごせる人と、
反対に、一緒にいるだけ疲れてしまう人がいます。
特に、無防備に”一緒にいて疲れてしまう人”と接してしまったとき、
もちろん、それは自分の感度の問題もあって、鈍感力を発揮すればいいのでしょうけど、、、
それがまた、ちょっと上から目線だったり、礼儀や品位を欠いていたりするのとセットでやられると、
気がついたときは、負の気をぶわ~~っと浴びてしまっているので、ダメージ大ですよね。
でも、そういう強い負の気や言葉を発信してくる人たちには共通点があって、
たいていの場合、言葉を正しく使えていない。あるいは、圧倒的に言葉が足りない。
ひいては、
理解力(や読解力)が低め・自分の発する言葉の強さがわかっていない
からだと思いませんか?
大人だとなんとなくわかってそれを警戒できるものの、
子どもは感度が高いのに気づいてなくて、それがストレスになっていることも多々あるのでは、と感じていました。
言葉が短い、とか、難しい言葉とか…
発信する側と受信する側に分けて考えてみます。
発信する側
〈短い言葉〉
子どもどうしの会話で、あきらかに上に立とうとしてくるときって、親を含む大人の受け売り、そこまでするか?っていうことがあります。
その代表的なのが「ダメ」。
幼稚園にお迎えにいくと、たいていどこかで
「ダメ」
という言葉が聞こえてきていました。
本当にダメなときもあれば、相手にそれをさせたくないときも、みんな「ダメ」。
(あなた自身が、お家でお母さんに言われているからだよね…外では言ってみたいよね、わかるよ)
このとき、ワタシも頭ごなしの「ダメ」を言っちゃいけないなって学びました。
「先生、お茶」。
これは小学校の担任の先生が言葉遣いには注意しましょうの例であげられたそうです。
女性の国語の先生。この言葉を教室の中で誰かが使うと、
「先生はお茶じゃありません」「先生はティッシュじゃありません」…といつも何度でも根気強く注意して下さったようで、
家庭でも話題にしましたし、ワタシも言わないよう言わせないように注意をしました。
子どもは悪気があって言っているわけじゃない、たぶん家庭ではそれで通ってしまっているから外で出ちゃうのでしょう。
こういうの、家の中だからいいか、が、子どもは、つい外で出ちゃうからこわいな…
「お~いお茶」も「はいお茶」もダメよね
〈わざと難しい言葉を言ってマウントをとってくるお友だち〉
小学校での、もう少しレベルが上がったやりとりに、
わざと難しい言葉を言ってマウントをとってくる
っていうのもありました。
まぁこれも、親を含む大人の受け売り発言ですよ、きっともとは。
小学校なのでね、さすがに子ども同士のそういうやり取りを直接耳にすることはできませんが、先生はたくさん聞いてるんだろうな。教室では、しょっちゅうありそう。
あるとき息子がこんなことを言いました。
さすがにそれはないだろう?っていうようなことを学校で言われたと。
ん?なになに?
当時、お友だちどうしでおもしろいと話題になっていた「スパイダーウィック家の謎」という児童図書の新刊。早く出ないかな、翻訳版も出ないかな、みたいな話をしていたときのこと。普段からちょっとオーバーめにマウントとってくる別のお友だちが会話に入ってきて、
「ボク、ハワイに旅行に行ったときに、ハワイでしか見られないウェブサイトで、新刊を英語で読んできたから、内容全部知ってるよ」
ハワイに旅行:(これは、ウチの子にすれば未知の領域。完全にマウント取られてます。)
ハワイでしか見られないウェブサイト:(外国でインターネットにつなげて…ふ~ん…)
(でも「このサイトはハワイでしか見られませんってどうしてわかったの?ん?」)
ここから息子の疑問が始まりまして、
新刊を:(え?新刊まだ出てないよ)
英語で読んだ:(は?????)
となったと。その場では、息子も周りのお友だちも、へぇ~ですませたらしいのですが、
後半の怪しさが度を越えていてさすがにおかしいと思ったらしく、ワタシに話してくれました。
ここまで、すがすがしいほどに明らかなウソを言ってくれると、ワタクシも指導しやすいです。
「その子とは距離を置きなさい」。
「新しい言葉を耳にすると、びっくりしたり、怖いって思ったり、引き込まれたりすると思うけれど、耳にした言葉をなんでもうのみにするのではなく、意味を理解するようにしなさい、おかしいなと思ったらすぐに行動しないで、相談してね」。
戦わなくていいよ
これは小学校3年生のときでした。わかった風なこと言ってるけど、小3男子の精度ってこんなものか…
〈サンタさんなんていないんだよ〉
親が子に、あるいは家族の中だけのつもりで言った話や言葉が、子どもの口からお友だちに対して出ちゃうのは、何も幼稚園時代に限ったことではありません。
サンタさん論争は、下手をすると揚げ足を取られそうな代表的なものです。
ウチは、サンタさんいる派で育てちゃいまして、
まぁ厳密には誰がサンタさんをやっているかというだけのことでサンタさんはいる、という解釈なんですけど、それは大人の解釈…
我が子たちは2人とも言葉で”戦う”タイプではないので「サンタさんなんていないんだよ」とお友だちに言われても、ふ~んですませていたそうですが、
サンタさんを心から信じている娘のお友だちが、他のお友だちからの”言葉の戦い”をまともに受けてしまって、ちょっとしたトラブルになったことがありました。
結局戦いも負けてしまい、信じていたお友だちが間違っていたということになってしまったそう。
この話をしてくれた(サンタ信じる派のお子さんの)お母さまは、いろんな意味でかなり残念だとおっしゃっていました。
まぁ、そうよね。
これは娘が小学校4年生のとき。
もし親がサンタさんの正体をばらすなら「でも、信じているお友だちもいるから、積極的に発信しないようにね」
くらいは添えた方がいいかな…
”戦い”に勝った方のお子さんも悪いお子さんじゃないんですけどね…発信の仕方や”戦い方”にはもうちょっと優しさが欲しかったなぁ、と思った一件でした。
発信は、今は積極的にできなくていいよ。
すぐに言い返せなくてもいいよ。
今は、調べる、相談する、準備する、練習する、それらをしてから自分なりに正しく発信できたら十分だよ。
受信する側
基本的には平和な学校生活とはいえ、強い言葉を容赦なく受けたり、あるいは心の準備なく受信する側になることがあるという意味では、
学校って、それなりにサバイバルです。特に小学校~中学校は。
ですから、
「言われたことの重要性の大小や優先順位だけは考えなさい」
と言うようにしていました。
誰に言われたのか?どうして言われたのか?真意はどこか?
言葉の価値って、だいたいその辺で決まりますよね。
短い言葉が多い人は、そもそも語彙力が少ないからかもしれない。
感情的になる人の言葉にのせられて感情的になってはいけない。その感情はあなたが自分で処理してねと心で念じて距離を置く。
そして、最終手段で、
これはワタシの中では最終手段なんですけど、
距離を置けない場合(グループが一緒・席が近いなど)は、その人の背景を知ることも必要
だと考えていました。
よく、相手の気持ちになって考えましょう、とか、相手の立場になって…などと教えられますけど、
それって子どもにとっては、結構難しいことですよ。
大人でも。
子ども同士で相手の家庭のことなどちゃんと理解できませんし、違う家庭で育っている以上、考え方も違います。
その代わり、親が多少なりともそのお子さんやご家庭の背景を知ることで、いい距離感がどの辺りなのかを親子で話して測るようにしていました。
結局小学校時代が大事だと思う
大人になって発信が正しくできている人って、そもそも受信が正しくできているんですよね。特徴としては
- 同じことを読んだり聞いたりしても理解が深い。内容をしっかり覚えている
- 何かの指示的なものを出されたときに「それは必要なの?」「優先順位は?」を必ず考える
- 端的に言語化し、伝わる言葉で話す
- 行き詰まったときに、冷静に振り返って対応することができる
- 言葉遣いが適切
それらをどう形成するかというと、ワタシの、たった二人の子育て経験と、狭くあさ~く他人様のお子さまと接してきた経験を総合しますと、
語彙力や読解力などの「受信力」は、小学校のうちにつけておくのがベスト
であろうと。
絵本の読み聞かせ・読書の量・家庭での会話・学校での実践、全部重視です。
毎日のことですので、そこに気を配るかどうかで、ものすごい差がつくと考えていますし、
実際、それが実生活にも勉強の成績にも直結している気がします。
中学や高校になってからでも学べるんじゃないの?
もちろんそうですけど、大人になって
「あなたって読解力低いね・語彙力ないね」
などと面と向かって言ったり言われたりしませんよね。実際それらを測れないし、そもそもそれらを測って育む時代はとっくに過ぎてしまっているので、機を逸すると追いつくのが大変。
その分、この問題は奥が深い。
習得しないまま大人になるか、自分で気づいて後から身につけるか、できればどっちも避けたいと考えるなら
小学校時代の国語系インプットはものすごく重要です。
ウチなんて、このインプットのために、子どものそばに座って家庭で先取り学習をやらせたり、予習シリーズをやらせたり、夏休みの課題をしっかりやらせたようなものだったと、今さらながら思います。
最近、思うことがあるんですけど、ちょっと書いていいですか?

はすちゃん!!!爆弾発言はやめてね

はい、気をつけます
誹謗中傷。
昨今よく耳にしますが…誹謗も批判も非難も批評も一緒にされがちのような気がします。
誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)は、根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つける行為。
基本的に合法である批判や非難と混同されやすいが、批判とは「相手の行動に対する評価か相手の主張への反論」という法的・倫理違反者への言動自体へのこのように直すべきとした建設的な指摘やアドバイスである。非難はアドバイスなど提案的な内容無しに根拠がある落ち度や過失などを取り上げて責めることである。
Wikipediaより
「誹謗中傷」は、とても強い言葉です。
したがって、具体的な説明なく短い言葉で「誹謗中傷されました」と発信してしまうと、どれが誹謗なのかはっきりしないので、適切な批評が隠れてしまい、
受信側はただ単に混乱してしまいます。
そして、
言葉が足りないゆえ、本当の誹謗中傷はなくならないし、適切に批評をしてくれた人まで敵に回してしまう。。。
本来、
発信する側は、相手に伝わるよう適切な言葉を使わなければいけません。
日本語には似て非なる言葉がたくさんあります。
誹謗・批判・非難・批評・糾弾・・・論難とか呵責とか・・・
強い言葉を敢えて使うのであれば、発信者はちゃんと使い分けましょうよ。
日本では「行間を読みとる」とか「言葉の裏に隠された真意を汲む」ことを小さいときから学校で教育されます。
その教育の結果、この短い四字熟語だけでも、受け手にいろんな真意を汲むことを求めるのでしょうが
それでも、言葉が短すぎると受信側の解釈がばらばらになってしまう。。。
さらに、その「汲み取る」教育は受信側が発信側の真意を汲むことから始めますが、真のゴールはその逆、つまり
自分が相手の意を慮って、適切な言葉を発信できるようになりましょう
であって、自分から伝わりにくい強い言葉を発信したときに、相手に斟酌を求めることではないはずです。
発信者がわざと伝わりにくい言葉を使うときは、伝わらなくてもよいという意図で発信しているととられても仕方ありません。
「いじめ」も誹謗中傷と同じくらい強い言葉ですね。
しかも「いじめ」には代わりの適切な言葉がなく、とても広い意味で使われるので、
「いじめた」「いじめられた」と口に出すことは、かなり躊躇し、かなり覚悟した上で使わなければいけません。
こういう細やかな教育のベースは、やはり家庭です。
子育てって、最初は行動そのもののしつけから始まったものが、
そのうち、子どもの発する言葉を丁寧に拾って修正したり拡げたり楽しんだり…親も感情に任せて言葉を出さないように注意したり…という段階になると、
一気に自分を試されているような気分になります。
言葉の使い方ひとつで人間関係も、はたまた自分自身も変わることは正直肌で感じていましたが、
それを子育ての上で実践するのはなかなか難しいこと。
それにはまず、自分が気を遣わないといけない。自分改造もしなければいけない…
これはまさに自分育てでして、まだまだ続いています。
「遣う」という言葉には、気や心を工夫して使用するという意味があります。
「言葉」や「気」や「心」「思」などに対してだけ限定的に使う漢字です。
せっかくこんな美しい字があるのですから、優しい心遣いを言葉にのせて、相手に伝える手段にしていけたらいいなと思っています。
我が子にも伝えていかないと!です。
今回もお読みくださり、ありがとうございました
息子の成長の記録は、時計の逆回転で綴っています。どうぞ にたろう もご覧ください。
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